わたしたちの教会は,アメリカで生まれたプロテスタントのキリスト教会です。 
  
 
 日本アライアンス教団  福山アライアンス教会         
                                                                                                

                                                                                                                                                                 

       ようこそ、福山アライアンス教会のホームページへ 

        あなたのみ言葉は、わが足のともしび、わが道の光です 詩篇 119:105

 
       牧 師 小柳 均
       

                 
 

牧師プロフィイル

牧 師  小柳 均


1959年2月 佐賀県に生まれる
2007年3月 日本アライアンス神学校卒業
2007年4月 大阪キリスト教会副牧師
2012年5月 大阪キリスト教会牧師 
2018年4月 福山アライアンス教会牧師に
       就任、現在に至る
 

カウンタ

COUNTER18492
2015/10/01-

オンライン状況

オンラインユーザー3人
ログインユーザー0人



2018年6月10日
 「するとすぐ、鶏が鳴いた。」 ヨハネ18:27


2018年6月3日
 「人が神を裁く」 ヨハネ18:22


2018年5月27日
 「飲むべき杯」 ヨハネ18:11


2018年5月20日(ペンテコステ礼拝)
 「継続していく救いの御業」 使徒1:25


2018年5月13日
 「祝福しながら彼らを離れ」 ルカ24:51


2018年5月6日
 「主よ、この人はどうなるのでしょうか」 ヨハネ21:21
  (それぞれの召しに従って)


2018年4月29日
 「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」 ヨハネ21:12


2018年4月22日
 「見ないで信ずる者は、さいわいである。」 ヨハネ20:29


2018年4月15日
 「主を見て喜んだ。」 ヨハネ20:20


2018年4月8日
 「なぜ泣いているのか」 ヨハネ20:13


2018年4月1日(イースター礼拝)
 「主が墓から取り去られました。」 ヨハネ20:2


2018年3月25日

 「父よ…すべての人を一つにしてください。」 ヨハネ17:21
 17章では、主イエスは先ずご自分のために(1 - 5節)、次に弟子たちのために(6 - 19節)、最後にこれから形作られる教会のために(20 - 26節)祈られます。◆「彼ら(弟子たち)のためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは、「ほかの羊」(10:16)とか「ギリシャ人」(12:20)と言われるユダヤ人以外のクリスチャンのことで、「彼らもわたしたち(御父と御子)の内にいるように」と祈られます(→1ヨハネ1:3)。それを見て、神が「彼ら(教会)をも愛しておられたことを、世が知るように」なるでしょう(グローバルな教会→外国人の多い福山教会!)。◆そのクリスチャンたちを、「わたしのいる所(神の右の座)に、共におらせ…わたしの栄光を、彼らに見せ」たいと主は願われます(グローリアス《栄光に満ちた》教会→福山教会に誇りを!)。◆「正しい父よ」と呼びかけて、教会が世の中の御利益信仰に妥協せず、「(神の)御名を彼ら(弟子たち)に…これからも(新しい信者に)知らせ」て、彼らの信仰が成長するように、と主は祈られます(グローイング《成長を続ける》教会→成長する年長者は若々しい!)。◆「すべての(種種雑多な)人」を受け入る教会(若い牧師でも育てた!)は「栄えに満ちた神の都」(讃194番)です。

2018年3月18日
 「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ヨハネ16:33
 14章から始まった「別れの説教」の最後で、主イエスは弟子たちに勝利を語り、勇気を出すように、と励まされます。◆これまで主は、「たとえを用いて話して」来られましたが(→飛行機の話をするレオナルド・ダヴィンチ)、これからは「父御自身が、あなたがたを(友のように)愛しておられる」ので、「あなたがたはわたしの名によって願う」ことが出来ます(→「祈りの人」シンプソン)。◆御子イエスは、「父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と、御自分が神と一体であることをはっきりと話され、弟子たちもそれに対して、「わたしたちは信じます」と答えます(GPSで自分の居場所が確認できるようになって安心するように!)。◆主は彼らの成長を喜ぶと共に、「今ようやく信じるようになったのか」と言われます。「弟子たちが余りにも有頂天になっているので、キリストは彼らを戒めておられる。」(カルヴァン) 「あなたがたが散らされて自分の家に帰」るようになっても、「わたしによって(主の懐の中で)平和を得る」でしょう。◆誰も皆「世で苦難がある」のですが、大丈夫です。主は苦難を受けて、「成し遂げられた」(19:30)と勝利を宣言されます。「インマヌエル(神共にいます)の君」(讃161番)が私たちの主です。

2018年3月11日
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」 ヨハネ15:16
 主イエスが去られた後、弟子たちは自立を迫られますが、主が彼らを選んで下さったのですから安心してよいのです。◆彼らは「互いに愛し合う」(→13:34)べきですが、具体的には「友のために自分の命を捨てる」(主の十字架!)ことです(命を削るほどの労苦→2コリント11:16以下)。今の彼らは、主から「僕とは呼ばない…友と呼ぶ」と言われるほどに成長しましたが、3年半前に主に選ばれ(→1:35以下)、「出かけて行って実を結び、その実が(いつまでも)残るように…任命」されたのです。「互いに愛し合い」つつ伝道すべきです(不肖の弟子→主に肖(に)た弟子たち)。◆「世があなたがたを憎むなら…」と主は予告され、ご自分を憎んだ世の人々は彼らも憎むが、「僕は主人にまさりはしない」(13:16)ので驚く必要はないのです。「理由もなく、わたしを憎んだ」(詩35:19)とある通りです。「信ずる者は慌てることはない」(イザヤ28:16)!◆そういう時でも、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者」(聖霊)が主を証しされるので、彼らも証しします(→1ヨハネ1:1)。◆「汝ら我を選びしにあらず、我なんじらを選べり」(文語)と言われる主が私たちを用いられます(→出3:11以下)。「主のものとなりけり」(讃529番)です。

2018年3月4日
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」 ヨハネ15:1
 主イエスは、弟子たちが新しい教会の指導者となる時に、主につながっていれば豊かに実を結ぶ、と言われます。◆「まことのぶどうの木」は、旧約のイスラエルが「酸っぱいぶどう」(イザヤ5:2)や「悪い野ぶどう」(エレミヤ2:21)になったので、「本来あるべきぶどう」として、農夫である父なる神によって植えられ(→3:16)、「手入れ(剪定)」して実を結ばせられます。◆ぶどうの枝(弟子たち)は「既に清くなっている」(→13:10)ので、大切なのは、「木に(継続的に)つながっている」ことです。そうすれば、「その人は豊かに実を結ぶ」ことが出来ます。「私たちはキリストの外にいる限り、どんな良い実りももたらすことはない」(カルヴァン)でしょう(洗礼から成長へ!)。◆実りの豊かな教会のキーワードが3つあります。1.「望むものを何でも願」うこと(祈り)。父なる神は豊かな収穫で「栄光をお受けに」なります(一反で何俵と自慢する農夫!)。2.「愛にとどまって」いること。3.「喜びが満たされる」こと。主につながっている教会は成長します(これからの福山教会!)。◆教会は主イエスを中心にした集まりです。「ひとつのみかて(御糧)ともに受けて」(パンとぶどう酒!)、「君の来ますを切に祈」(讃191番)って待ちます。

2018年2月25日
 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」 ヨハネ14:18
 心細くなっている弟子たちに対して、主イエスは、ご自分が決して彼らを放っておかない真の友だ、と言われます。◆別れに際して主の願いは、「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」ことです(恩師の教え!)。そのために主は「別の弁護者」として「真理の霊」を遣わし、「この霊があなたがたと共におり…内にいる」ようにし、彼らに対して「わたし自身を現す」でしょう。◆「イスカリオテでない方のユダ」(→マルコ3:18「タダイ」)が、「世にはそうなさらないのは、なぜでしょう」と質問します(他の人が気になる!)。主は、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」のだから、今はその人たちに語るのだ、と言われます(→21:21「主よ、この人は?」と質問するペトロ)。◆主は改めて聖霊について、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が…わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と語られます(使徒ヨハネ自身にも!)。まもなく「世の支配者」(サタン)が来ますが、大丈夫です。主は「平和(シャローム)を…残し」て行かれます(→マタイ28:20)。◆主は弟子たちを愛しておられ、彼らを「みなしご」(オルファノス)には決してされません。「慈しみ深き友なるイエス」(
讃312番)に祈ることが出来ます。


2018年2月18日
 「あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。」 ヨハネ14:2
 14章から16章までは「別れの説教」と呼ばれ、主イエスは弟子たちを安心させ、希望を持たせようとされます。◆主は、不安な彼らに、「心を騒がせるな」(→13:21)と言い、「神を信じ…わたしを信じなさい」と勧められます。「私たちの信仰は、ただキリストだけに向けられるべきである。」(カルヴァン)「わたしの父の家(天国)には住む所がたくさんある…その道をあなたがたは知っている」と言われます(葬儀!)。◆トマス(→20:24)は、「その道」を具体的に知ろうとしますが、主は「わたしは(真理と命の)道」だと言い、「わたしを知っているなら、わたしの父(なる神)おも知る」のだから、安心しなさいと言われます(そっくりな親子!)。◆フィリポ(→12:22)は、他の弟子たちを執り成すように、「御父(なる神)をお示しください」と言いますが、主は「わたしを見たものは、父を見たのだ」と同じ答えをされます。そして、「はっきり言っておく」と念を押して、これから弟子たちは「もっと大きな業を行う」と予告され、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とも約束されます(福山教会の将来!)。◆主は天に帰られますが、そこに住む所を備えてくださり、地上に残る私たちは「安かれ」(讃298番)と歌うのです。

2018年2月11日
 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」 ヨハネ13:34
 ユダが去った後、主イエスは残った11人の弟子に、彼らだけになっても絶望せず、心を一つにせよ、と教えられます。◆ユダの裏切りが決定的になった時、主は「人の子は栄光を受けた…神も…栄光をお与えになる」と、十字架と復活と世界宣教の開始を宣言し(→12:24「一粒の麦」)、弟子たちを励まされます。◆主は、「子たちよ…あなたがたはわたしを捜すだろう」と、これからのことを言い、「新しい掟」を示されます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられます。「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と比べると、レベルが低いようですが、「友愛の絆が弟子たちの間ではるかに固く、より緊密に結ばれているのは当然」(カルヴァン)です。そうすることで、「あなたがたがわたしの弟子であること」を証しします(福山教会!)。◆ペトロは、「主よ、どこへ行かれるのですか」(クォ・ヴァディス?)と尋ねて、主から「あなたは三度わたしを知らないと言う」と予告されます。「今はついて来ることはできないが、あとでついて来る」と言われます(→21:19)。◆旧約時代にも「愛の掟」(レビ19:18)はありましたが、主は愛のサンプルとなられたので(→13:1)、「主よ、み手もて」(讃285番)と従うのです。

2018年2月4日  
 「わたしのパンを食べている者がわたしに逆らった。」 ヨハネ13:18
 弟子たちの足を洗ってから、主イエスは彼らに、これからのことを話し、何が起こっても大丈夫なようにされます。◆一つのことは、彼らがやがて教会の指導者になった時の心得です。主が示してくださった模範にならって、「あなたがたも互いに足を洗い合う」べきです(→ルカ22:26 「仕える者のように」)。◆もう一つは、ユダが裏切ること(→6:70)ですが、主は「どのような人々を選び出したか分かっている」と言われます。「この『分かっている』は、本来、神に属することである。」(カルヴァン)神の御子は、ダビデと同じように、大切に育てた弟子が「わたしにむかってそのかかとをあげた」(詩41:10 口語訳)という場面に直面されますが、「わたしは(神で)ある」故に、大丈夫です。◆主は「心を騒がせ」ながらも、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言い渡されます。「イエスの愛しておられた者」(使徒ヨハネ)にペトロが合図して、「だれのことですか」と尋ねさせ、主は「パン切れを…ユダにお与えに」なります。主は、迷うことなく、救い主として前進されます。◆「飼い犬に手をかまれる」ような思いをしながらも、主は弟子たちのことを心配されます。「我がため悩みを忍びたまいし…み神の小羊」(讃257番)です。

2018年1月28日
 「たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い…」 ヨハネ13:5
 13章から17章までは「最後の晩餐」の記事です。その最初で、主イエスは弟子たちの足を洗い、彼らの心が本当に清くなるように、という願いを示されます。◆「過越祭の前」に、主は「御自分の時が来たことを悟り…弟子たちを愛し…愛し抜かれ」ます。「キリストが、まさに死のまぎわに抱いていたと同じ愛情と意志とを、今日も私たちに抱いているのを疑ってはならない。」(カルヴァン)◆「夕食の時」になっても、弟子たちは「誰が一番偉いか」と席順を争い(→ルカ22:24)、ユダが「イエスを裏切る考え」を持っていることを知って(→マルコ14:10)、主は「食事の席から立ち上がって…弟子たちの足を洗い…ふき始められ」ます。一番心の汚れたユダについて、「皆が清いわけではない」と言われます(ユダが最初に足を洗われた?)。◆ペトロが、「主よ、あなたがわたしの足を…」と躊躇し、「決して洗わないでください」と足を引っ込めると、「わたしと何のかかわりもないことになる」と、主は警告されます。「手も頭も」と言うと、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と答えられます(新生後の罪→2コリント5:17)。◆私たちは生涯、主のもとに来て(主日毎に!)、「君なるイエスよ、汚れし我を洗い清め」(讃339番)と歌いましょう。

2018年1月21日
 「だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」 ヨハネ12:46
 ヨハネ福音書は12章の終わりで、主イエスのユダヤ人への伝道活動をしめくくります。主は最後まで、人々が信じて救われるように、招き続けられます。◆主は、「多くのしるしを彼らの目の前で行われた」のですが、彼らは信じません(日本人も!)。イザヤが、「主の御腕は、だれに示されましたか」(53:1)とか、「神は彼らの目を見えなくし…彼らは…立ち帰らない」(6:9.10)と預言した通りです(→トーマス・フランシス宣教師の福山周辺地域への伝道)。◆一方で、「議員(支配階級)の中にもイエスを信じる者は多かった」のは事実です(→ニコデモやヨセフ)。彼らは「会堂から追放されるのを恐れ…公けに言い表わさなかった」のですが、潜在的な信仰者になります(伝道の希望!)。◆最後に、「イエスは叫んで…」として使徒ヨハネは主のメッセージを再現します。 1.「わたしを遣わされた方(神)」との一体性(→5:24) 2.「光として世に来た」救い主(→12:35) 3.「世を裁くためではなく、世を救うために来た」神の御子(→3:16 - 17)。◆「キリストは、初めから光だったが、光としての務めを果すために」(カルヴァン)父のもとから来て、「我に来よ」(讃517番)と招いてくださる救い主です。

2018年1月14日
 「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」 ヨハネ12:35
 十字架を前にして、さすがに主イエスも平気ではなく、心の葛藤を経験されますが(ヨハネ福音書のゲッセマネ!)、それに打ち勝って前進されます。◆主は、「わたしは心騒ぐ」と正直に言い、「父よ、わたしをこの時から救ってください」と心の中で考えても、それを打ち消して「父よ、御名の栄光を現してください」と言われます(→マルコ14:36)。父なる神の「天からの声」が主を励まします(私たちの信仰生涯も!)。◆群衆は「雷が…天使が…」と見当違いの想像をしますが、主は「この声は…あなたがたのためだ」とされ、「今こそ…この世の支配者(悪魔)が追放され…わたしは…上げられ…すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と、十字架によって始まる救いを予告されます。「十字架は馬車のようであり、キリストはそれですべての人を父の所まで高くあげる」(カルヴァン)のです(十字架の塔!)。◆群衆は理解しないのですが、主はご自分がメシアであって、天にある光となって暗闇の世に輝くので、「光のあるうちに歩きなさい」と招かれます。私たちも「世の光」(マタイ5:14)になります。◆十字架を見上げつつ、天に帰った先輩たちを思い、「わが身も勇みて十字架を負い」(讃331番)と歌いましょう。

2018年1月7日
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ…だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 ヨハネ12:24
 エルサレムの神殿におられる主イエスを訪ねて、数人のギリシア人が来ます。主は世界宣教の開始を告げられます。◆彼らは、「イエスにお目にかかりたいのです」と、「ベトサイダ(ギリシア風の町)出身のフィリポ」に頼んで主の弟子になろうとします。彼は、友達のアンデレと共に主に紹介します(→1:44)。◆外国人への宣教の道が開けたのを見られた主は(→10:11)、「人の子(イエス)が栄光を受ける時が来た」(十字架→復活→世界宣教)と宣言されます。主は、「一粒の麦」として(→1コリント15:36)、「地に落ちて死」ぬことによって「多くの実を結ぶ」のだと、死を前向きに理解されます(私たちもそうありたい!→2コリント4:16 - 18)。◆主は弟子たちに向かって、「永遠の命に至る」ために「この世で自分の命を憎む」生き方を勧められます。「私たちは絶えず目的を目指し…世の中を通り過ぎて行くなら、それで良いのである」(カルヴァン) 主は、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と、いつも主から離れずに歩む生涯が神の前に尊いのだと言われます(→マタイ25:21)。◆私たちのために一粒の麦として死んでくださった主を見つつ、「われ何をなして主に報いし」(讃332番)と歌いましょう。

2017年12月31日
 「見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」 ヨハネ12:15
 主イエスはメシアとしてエルサレムに入城されますが(→マルコ11:1 - 11)、世界に平和をもたらす救い主です。◆「その翌日」(しゅろの日曜日)、主が来られたのを迎える人々は、「なつめやしの枝」を持って歓迎します(青々として力強い!)。「ホサナ(今お救いください)…イスラエルの王」と叫ぶのも政治的な解放者として期待したのです。◆主は、「ろばの子を見つけて」乗られます(→マタイ21:7)が、それは「柔和な方で…子ろばに乗って」(ゼカリヤ9:9)とあるように、平和な姿を示すためでした。弟子たちがその意味を知ったのは、「イエスが栄光を受けられた」(→12:23)後でした(ヨハネも!)。◆この時、「イエスがラザロを墓から呼び出し…死者の中からよみがえらせた」証人たちや、「イエスがこのようなしるしをなさったと聞いた」人々が来ていました。「彼らはイエスにメシアの栄光を帰する至極当然な理由があった」(カルヴァン)のです(→使徒2:41「三千人ほどが仲間に」)。ファリサイ派の人々は、「世をあげてあの男について行った」と嘆きます(伝道する希望!)。◆今の時代に私たちは、一人一人の命を大切にされる「平和の主」(讃130番)を心から歓迎し、賛美したいものです。

2017年12月24日
 「マリアが…ナルドの香油を…イエスの足に塗り…家は香油の香りでいっぱいになった。」 ヨハネ12:3
 クリスマスの時、主イエスを迎える私たちは何をすべきか、マリアのしたことを中心に教えられたいと思います。◆「過越祭の6日前」、主イエスは身を隠しておられたエフライムから出て、ベタニアのラザロの家を訪ねられます(→マルコ14:3 - 9)。盛大な歓迎会が開かれる中、マリアは主イエスの全身に香油を塗って精一杯の感謝を表します。◆「後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」は、「なぜ…三百デナリオン(三百万円!)で売って、貧しい人々に施さなかったのか」と彼女を非難しますが、主は、「わたしの葬りの日のために」してくれた、と喜ばれます。使徒ヨハネは「彼は盗人で…(お金を)ごまかしていた」と、あとから知ります(→人は変わる、良くも悪くも、ペトロとユダ!)。◆主がおられることを知って大群衆が来ますが、彼らの目当ては「イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るため」でもありました。「彼らはキリストの徳の驚くべき証拠をラザロの中に見ようとした」(カルヴァン)のです(クリスチャンとして存在することが大切!)。◆香油の香りは家の中から外まで広がったでしょう。主を迎えて、「いそぎ行きて拝まずや」(讃111番)と歌いましょう。

2017年12月17日
 「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方があなたがたに好都合だと…」 ヨハネ11:50
 洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)と言いましたが、主イエスは過越しの小羊として死ぬために来られた救い主です。◆ラザロの復活事件は大きな波紋を引き起こします。ユダヤ人の中には主を信じた者もいましたが、危険視した者たちも多く、「ローマ人が来て…滅ぼしてしまう」ことを恐れ、「どうすればよいか」と焦ります(弱いユダヤ人たち!)。◆「その年の大祭司であったカイアファ」は、国民を守るために主を殺せばよい、と強い意見を述べます。しかし、「彼の舌は、もっと高い所(天)から動かされた」(カルヴァン)のであって、「イエスが国民のために…散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」という預言をしたのです(神の強さ!)。◆「ユダヤ人の過越祭(→出エ12:13)が近づいた」時、「イエスを逮捕する」命令が出ている中で、主はエルサレムを去り、「荒れ野に近い地方のエフライムという町」に危険を避けられます(用心深い主!過越しの小羊となるため…)。◆カイアファは「民(ユダヤ人)の代わりに」と言いましたが、主は全人類のために死ぬ覚悟です。「(虫のような)我がため」(讃138番)に主は来られました。

2017年12月10日
 「イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と…」 ヨハネ11:35.36
 「神殿奉献記念祭」(ハヌカ)が終わって、過越祭が近づいた頃(十字架!)、主イエスは死に直面して苦しむ者と共にいて、怒り、同情し、祈られます。◆マルタに呼ばれてラザロの墓の所に来たマリアが泣き、ユダヤ人も泣くのを見て、主は「心に憤りを覚え(憤慨し→マルコ14:5)、興奮」されます。人間を苦しめる死(→「最後の敵」1コリント15:26)に対して、怒る神の御子です。◆「どこに葬ったのか」と言って墓に近づきつつ、主は「涙を流され」(→「泣く人と共に」ローマ12:15)ます。墓の石を開けようとすると、マルタは「主よ…もう…」と言って拒みますが、「信じるなら、神の栄光を見られる」と言って、主は人間の弱さに同情しつつも、それに負けずに救いの業を進められます。◆墓の入口で主は先ず、「父よ…感謝します」と祈られます(→1テサロニケ5:18)。御父は「わたしの願いをいつも聞いてくださいます」と、御子の確信を述べた上で、「ラザロよ、出て来なさい」と大声で呼び、その通りになります。◆「神の子は、私たちの肉体をまとった時、人間的な諸情念も身にまとわれた」(カルヴァン)のです。「人となりたる活ける神」(讃121番)を賛美しましょう。

2017年12月3日
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」 ヨハネ11:25
 ラザロの墓の所で、主イエスを迎えたマルタは、行動的なだけでなく(→ルカ10章)、信仰的な女性で、主が愛と力に満ちた救い主である、と信じています。◆「ラザロは墓に葬られて既に4日もたって」いて、エルサレムからも「多くのユダヤ人が…慰めに来て」いました。マルタは、「イエスが来られたと聞いて」迎えに行きますが、彼女は他の誰よりも主を待っていたのです(待降節!)。◆彼女の願いは、主が早く来てラザロを癒してくださって、「わたしの兄弟は死ななかった」となることでした。しかし今も彼女は、主が「神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」と固く信じています(→シンプソン「賜物より癒しより与え主ぞ…」新聖歌346番)。◆主は、「あなたの兄弟は復活する」と特別な約束をされますが、彼女は「終りの日の復活」のことしか考えません。改めて、「わたしは a.復活… b.命… a.死んでも生き… b.決して死ぬことはない…信じるか」と言われると、「はい…信じております」と答えます。十分に理解できなくても、主がおられるだけで満足です(→キリスト抜きのクリスマス!)。◆主を信じる者は、どんなことがあっても、「主われを愛す、主は強ければ」と歌って(讃461番)、強く生きるのです。

2017年11月26日
 「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 ヨハネ11:11
 エルサレムから離れた所におられた主イエスに、マルタとマリア(→ルカ10:38 - 42)から、弟のラザロの危篤が伝えられますが、すぐには行かれません。◆姉妹が使用人を遣わして、「主よ、あなたの愛しておられる者(ラザロ)が病気なのです」と伝えても、「この病気は死で終わるものではない」と言い、「なお2日間同じ所に滞在され」ます。「神の栄光のため」にそうされるのです。◆ラザロが死んだ後、主は「もう一度ユダヤに行こう」と言われ、弟子たちは恐れます。「昼のうちに歩けば…この世の光を見て…夜歩けば…その人の内に光がない」と、今はまだ昼だと言われます。「世にいる間、世の光」(9:4)である主は、その光を最大限に輝かせる時を待っておられるのです(復活の主!)。◆いよいよその時が来て、主はラザロを復活させるべく出掛けられます。行きたくない弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と引きとめようとします。「ディディモ(双子)と呼ばれるトマス」だけは、「一緒に行って死のうではないか」と元気ですが、彼も主を誤解しています(→20:24)。◆主は、すぐに助けに来られなくても、私たちを愛して「友」と呼んでくださる「慈しみ深き友」(讃312番)です。

2017年11月19日
 「『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒瀆している』と言うのか。」 ヨハネ10:36
 主イエスが御自分を神と等しい者とされることを、ユダヤ人たちは問題にしますが(→5:18)、それは事実です。◆「わたしと父とは一つである」と言われた主を、ユダヤ人たちは「石で打ち殺そうと」します(→レビ24:16)。神を「父」と呼んだり、親しく語りかけたりすることが問題ではなく(『屋根の上のバイオリン弾き』!)、「人間なのに、自分を神としている」ことが問題です。◆主は、「あなたたちの律法」(旧約聖書)の中にある、「あなたたちは神々である」(詩82:6)という文章を引用されます。民の指導者でさえ、そう呼ばれるのに(ファリサイ派の人々も!)、特別に「父から聖なる者とされて世に遣わされた」主が「神の子」と言われても、問題はないはずです(聖書の権威!)。◆主は最後に、「父が与えてくださった多くの善い業(仕事)」について、「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と訴えられます(仕事は嘘をつかない!)。「何のしるしも行わなかった」洗礼者ヨハネとは対照的な主です。◆主は神の御子ですが、「天にまします我らの父よ」と呼ぶことを私たちに許してくださる、「永久に…変わりなき」(讃497番→シンプソン作)救い主です。

2017年11月12日
 「…だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」 ヨハネ10:29.30
 冬になり、「神殿奉献記念祭」(ハヌカ―)が祝われる中で、主イエスが登場し、御自分が暴力的でない、平和的で羊飼いのようなメシアだと宣言されます。◆紀元前164年に、神殿を汚した占領軍に反抗して奪回し、それを清めた英雄(マカベウス家のユダ)を思って、ユダヤ人たちは、「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と主に迫ります。しかし主は、暴力や軍事力による勝利という誘惑を退けられます(→マタイ4:8)。◆主は、「わたしは言った…父の名によって行う業…しかし…信じない」のは、「わたしの羊ではない」(羊になりたくない)からだ、と反論されます。少数でも「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」ことが出来ます(主の弟子たち!)。◆主の羊とされた者は幸いです。主は彼らに「永遠の命を与え…決して滅びず…手から奪うことはできない」者とされます。さらに「父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大(大切)であり、だれも父の手から奪うことは出来ない」と言われます。「これは素晴らしく美しい聖句である。」(カルヴァン)◆主をメシアとして遣わされた父なる神のお考えは、「わたしと…一つである」と断言されます。羊とされた私たちは、「平和の主」(讃130番)を賛美します。

2017年11月5日
 「わたしは良い羊飼いである…わたしは羊のために命を捨てる。」 ヨハネ10:11-15
 主イエスは、御自分こそ良い羊飼いであり、羊(私たち人間)を救うために父なる神が最後に送られた神の愛子だと言われます(→マルコ12:1 - 8)。◆旧約の時代にも良い羊飼いはいました(預言者たち!)が、「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」ような「雇い人」根性の者もいました(今も!)。主は「羊の門」として多くの羊飼いを派遣されましたが、最後の手段として御自分が来られます(→ブラジルの無牧師時代に牧師になった役員たち)。◆主にとって、「この囲いに入っていないほかの羊」(ユダヤ人以外の異邦人)も大切です。「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」でしょう(「伝道開始百周年感謝バザー」の目的!)。◆「父(なる神)はわたしを愛してくださる」のですが、それは主が「命を…捨てる」ことさえ喜んでされるからです。「キリストは、自分自身の命よりも私たちの救いを大切にする故に、御父に愛されていると確言されるのを驚く必要はない。」(カルヴァン) 「父から受けた掟」に従う御子です(→14:31)。◆今の時代に、羊のように不安と危険の中で生きている私たちです。命さえ捨てて守ってくださる羊飼いを、「慈しみを語り伝えん」(讃502番)と歌います。


アーカイブ (PDF)  
2018年3月  
2018年2月 
2018年1月 
2017年12月
2017年11月
2017年10月
2017年9月
2017年8月
2017年7月
2017年6月
2017年5月
2017年4月
2017年3月
2017年2月
2017年1月
2016年12月
2016年11月
2016年10月
2016年9月
2016年8月
2016年7月

2016年6月
2016年5月    
                    

2016年4月
2016年3月


© 2016 福山アライアンス教会

















Page Top