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 日本アライアンス教団  福山アライアンス教会         
                                                                                                

                                                                                                                                                                 

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        あなたのみ言葉は、わが足のともしび、わが道の光です 詩篇 119:105

 
       牧 師 小柳 均
       

                 
 

牧師プロフィイル

牧 師  小柳 均


1959年2月 佐賀県に生まれる
2007年3月 日本アライアンス神学校卒業
2007年4月 大阪キリスト教会副牧師
2012年5月 大阪キリスト教会牧師 
2018年4月 福山アライアンス教会牧師に
       就任、現在に至る
 

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2015/10/01-

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2018年9月16日(秋の伝道礼拝)
 「赦しと信仰」 創世記45:5

2018年9月9日
 「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによって」 1テサロニケ1:5

2018年9月2日
 「御子が天から来られるのを待ち望む」 1テサロニケ1:10

2018年8月26日(府中教会との交換講壇)
 「嵐を凪にされる主」 マタイ8:26

2018年8月19日
 「恵みと平和が、あなたがたにあるように。」 1テサロニケ1:1

2018年8月12日(召天者記念礼拝)
 「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」 マタイ13:30

2018年8月5日
 「十字架につけられた所には園があり」 ヨハネ19:41

2018年7月29日
 「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る。」 ヨハネ19:37

2018年7月22日
 「成し遂げられた」 ヨハネ19:30

2018年7月15日
 「イエスを真ん中にして両側に」 ヨハネ19:18

2018年7月8日
 「十字架の下で」 ヨハネ19:23

2018年7月1日
 「この人を見よ」 ヨハネ19:5
   (Ecce Homo  羅)

2018年6月24日
 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」 ヨハネ18:32

2018年6月17日
 「真理とは何か。」 ヨハネ18:38

2018年6月10日
 「するとすぐ、鶏が鳴いた。」 ヨハネ18:27

2018年6月3日
 「人が神を裁く」 ヨハネ18:22

2018年5月27日
 「飲むべき杯」 ヨハネ18:11

2018年5月20日(ペンテコステ礼拝)
 「継続していく救いの御業」 使徒1:25

2018年5月13日
 「祝福しながら彼らを離れ」 ルカ24:51

2018年5月6日
 「主よ、この人はどうなるのでしょうか」 ヨハネ21:21
  (それぞれの召しに従って)

2018年4月29日
 「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」 ヨハネ21:12

2018年4月22日
 「見ないで信ずる者は、さいわいである。」 ヨハネ20:29(口語訳)
 一週間の間、弟子達はトマスに、主が現れて下さったことを何度も語ったことでしょう(25節)。しかし、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見…」と言って(25節)、頑なに信じようとしません。弟子達の伝道は失敗しました。しかし、話しはここから始まるのです。
 次の日曜日、トマスは弟子達と一緒にいました。彼らは、この日曜日トマスに、ただ自分達と一緒にいることを願ったのでしょう。その時、復活の主イエスが現れ、「安かれ」と言われました(26節、口語訳)。主日の礼拝とはこういうことです。私達が、礼拝の場に共にいる、それが決定的に重要なことなのです。ここにおいて、出来事が起こされるからです。
 主イエスは、トマスに言われます。「あなたの指をここに当てて…」(27節)自分が何となく言った不信仰な言葉を、全部主イエスは知っておられた。トマスは、自らの不信仰や罪を突きつけられました。更に、主は「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と告げられました(27節)。自分のような不信仰な者を見捨てず、信仰へと招き、成長させて下さる、主の赦しと愛に、トマスは触れたのです。その時、彼の口から「わたしの主、わたしの神よ」という、主への信仰の告白が生まれました(28節)。
 そして、「見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われました(29節)。これは、トマスを責める言葉ではなく、今、教会に生きる私達は、「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じて」いる(1ペトロ1:8)、それは「魂の救いを受けているから」(同9節)、その全ての者に、「幸いだ」と告げられたということです。


2018年4月15日
 「主を見て喜んだ。」 ヨハネ20:20
 弟子たちは、マグダラのマリアの報告を聞いても、主の復活を信じ、喜びにあふれた訳ではありません。彼らはユダヤ人たちを恐れて、家の戸に鍵をかけていたのです。皆で祈っていたのではありません。善後策を講じていたのでもありません。皆、沈痛な面持ちで、ただ、恐れてじっとしていたのです。その真ん中に、復活の主イエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われました(19節)。
 「そう言って、手とわき腹とをお見せに」なり、「弟子たちは、主を見て喜」びました(20節)。どうして、弟子たちは喜ぶことができたのか?無邪気すぎないか?ペトロは、三度も主イエスを否んだのです。他の弟子たちも、主が捕らえられた時、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったのです。申し訳なさの余り、合わせる顔がないはずです。
 その手とわき腹とには、十字架の傷があったことでしょう。弟子達はそれを見て、自分たちの失敗を思い起こしたでしょう。普通でしたら、恐怖に落とされるようなことです。しかし、主は、弟子達に「安かれ」(19節、口語訳)と言われました。おそらく、輝きと喜びに満ちた表情で。ここにあるのは、恨みに支配された世界ではなく、弟子たちの裏切り、弱さ、罪が、十字架と復活とによって、既に乗り越えられたこととして示された世界です。主イエスの圧倒的な力、死に打ち勝った勝利と罪の赦しの宣言です。復活の主イエスに出会うとは、このメッセージを受け取り、新しい復活の命に生き、赦しと愛の中を生きることです。


2018年4月8日
 「なぜ泣いているのか」 ヨハネ20:13
 2人の男性の弟子は、空の墓を見て、家に帰りましたが、マグダラのマリアは帰りもせず、ただ「墓の外に立って泣いてい」(11節)ました。そのマリアに、復活の主は現れて下さいました。
 これまで、マリアは何度泣いたことでしょうか。木曜日の深夜、主イエスが捕らえられた時、群衆が「十字架につけよ」と叫び続けた時、十字架刑の判決が下された時、主が十字架を背負いゴルゴタの丘へと歩まれた時、主の手と足に釘が打たれた瞬間、息を引き取られた瞬間、遺体が墓に納められた時、そして何もできない安息日、マリアは泣き続けたことでしょう。そして日曜日の朝早く墓に来てみると、墓は空っぽだった。私のイエス様が取り去られた。どうしてこんなひどいことをするのか。
 しかし、ただ泣くしかない現実の向こう側から、私達の思いを遥かに超えた神様の救いのみ業が、既に始まっているのです。それが主イエスの復活です。
 マリアが「後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見え」(14節)ましたが、「それがイエスだとは分か」(14節)りませんでした。しかし、主が「マリア」(16節)と呼びかけた瞬間、イエス様であることが分かり、「ラボニ(先生)」(16節)と答えます。この呼応は、マリアがガリラヤからエルサレムまで、ずっと主に従ってきた日々の中で、何度も何度も繰り返されていたものだったでしょう。主の復活の出来事は、この、呼んで応えるという関係、主との深い人格的な、愛の交わりの中でしか受け取られないものです。復活の主に出会った者は、主を信じ、主と共に生きる者へと変えられるのです。


2018年4月1日(イースター礼拝)
 「主が墓から取り去られました。」 ヨハネ20:2
 マグダラのマリアは、墓に主イエスの遺体がないのを見て、誰かがイエス様の遺体を運び去ったと思った、と聖書には正直に記されています。主イエスが復活された、などとは思わなかったのです。彼女に限らず、主の弟子たちは、主が復活されることを期待して、祈って待ち望んでいたのではありません。復活とは、それ程、信じがたいことです。しかし、弟子たちは復活の主に出会った、この事実と証言と共に教会は建ちました。
 マリアの報告を受けて、ペトロともう一人の弟子が墓に走って行きます。彼らは、主イエスの体を巻いていた亜麻布と、頭を包んでいた覆いを「見て、信じた」(8節)とあります。主の復活を信じたのです。ただ、それは、状況を見て、それらから合理的に判断して、主は復活されたはずだ、と信じたということです。しかし、そういう信じ方では、力にはなりません。相変わらず、恐れや不安の中にあります(19節)。復活という出来事を、聖書の言葉と結びつけて悟らなければ、力にならないのです(9節)。これが、見ないで信じる信仰(29節)です。
 そういう彼らも、信じない者から信じる者へ、見て信じる信仰から見ないで信じる信仰へと育てられ、主の復活の証人として立っていきます。全ては主の導きによります。信仰は、1か0かではなく、漸進的(progessive)という面があります。私たちの信仰は、主が、み言葉と聖霊とによって導き成長させてくださる、主の御業です。


2018年3月25日
 「父よ…すべての人を一つにしてください。」 ヨハネ17:21
 17章では、主イエスは先ずご自分のために(1 - 5節)、次に弟子たちのために(6 - 19節)、最後にこれから形作られる教会のために(20 - 26節)祈られます。◆「彼ら(弟子たち)のためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは、「ほかの羊」(10:16)とか「ギリシャ人」(12:20)と言われるユダヤ人以外のクリスチャンのことで、「彼らもわたしたち(御父と御子)の内にいるように」と祈られます(→1ヨハネ1:3)。それを見て、神が「彼ら(教会)をも愛しておられたことを、世が知るように」なるでしょう(グローバルな教会→外国人の多い福山教会!)。◆そのクリスチャンたちを、「わたしのいる所(神の右の座)に、共におらせ…わたしの栄光を、彼らに見せ」たいと主は願われます(グローリアス《栄光に満ちた》教会→福山教会に誇りを!)。◆「正しい父よ」と呼びかけて、教会が世の中の御利益信仰に妥協せず、「(神の)御名を彼ら(弟子たち)に…これからも(新しい信者に)知らせ」て、彼らの信仰が成長するように、と主は祈られます(グローイング《成長を続ける》教会→成長する年長者は若々しい!)。◆「すべての(種種雑多な)人」を受け入る教会(若い牧師でも育てた!)は「栄えに満ちた神の都」(讃194番)です。

2018年3月18日
 「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ヨハネ16:33
 14章から始まった「別れの説教」の最後で、主イエスは弟子たちに勝利を語り、勇気を出すように、と励まされます。◆これまで主は、「たとえを用いて話して」来られましたが(→飛行機の話をするレオナルド・ダヴィンチ)、これからは「父御自身が、あなたがたを(友のように)愛しておられる」ので、「あなたがたはわたしの名によって願う」ことが出来ます(→「祈りの人」シンプソン)。◆御子イエスは、「父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と、御自分が神と一体であることをはっきりと話され、弟子たちもそれに対して、「わたしたちは信じます」と答えます(GPSで自分の居場所が確認できるようになって安心するように!)。◆主は彼らの成長を喜ぶと共に、「今ようやく信じるようになったのか」と言われます。「弟子たちが余りにも有頂天になっているので、キリストは彼らを戒めておられる。」(カルヴァン) 「あなたがたが散らされて自分の家に帰」るようになっても、「わたしによって(主の懐の中で)平和を得る」でしょう。◆誰も皆「世で苦難がある」のですが、大丈夫です。主は苦難を受けて、「成し遂げられた」(19:30)と勝利を宣言されます。「インマヌエル(神共にいます)の君」(讃161番)が私たちの主です。

2018年3月11日
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」 ヨハネ15:16
 主イエスが去られた後、弟子たちは自立を迫られますが、主が彼らを選んで下さったのですから安心してよいのです。◆彼らは「互いに愛し合う」(→13:34)べきですが、具体的には「友のために自分の命を捨てる」(主の十字架!)ことです(命を削るほどの労苦→2コリント11:16以下)。今の彼らは、主から「僕とは呼ばない…友と呼ぶ」と言われるほどに成長しましたが、3年半前に主に選ばれ(→1:35以下)、「出かけて行って実を結び、その実が(いつまでも)残るように…任命」されたのです。「互いに愛し合い」つつ伝道すべきです(不肖の弟子→主に肖(に)た弟子たち)。◆「世があなたがたを憎むなら…」と主は予告され、ご自分を憎んだ世の人々は彼らも憎むが、「僕は主人にまさりはしない」(13:16)ので驚く必要はないのです。「理由もなく、わたしを憎んだ」(詩35:19)とある通りです。「信ずる者は慌てることはない」(イザヤ28:16)!◆そういう時でも、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者」(聖霊)が主を証しされるので、彼らも証しします(→1ヨハネ1:1)。◆「汝ら我を選びしにあらず、我なんじらを選べり」(文語)と言われる主が私たちを用いられます(→出3:11以下)。「主のものとなりけり」(讃529番)です。

2018年3月4日
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」 ヨハネ15:1
 主イエスは、弟子たちが新しい教会の指導者となる時に、主につながっていれば豊かに実を結ぶ、と言われます。◆「まことのぶどうの木」は、旧約のイスラエルが「酸っぱいぶどう」(イザヤ5:2)や「悪い野ぶどう」(エレミヤ2:21)になったので、「本来あるべきぶどう」として、農夫である父なる神によって植えられ(→3:16)、「手入れ(剪定)」して実を結ばせられます。◆ぶどうの枝(弟子たち)は「既に清くなっている」(→13:10)ので、大切なのは、「木に(継続的に)つながっている」ことです。そうすれば、「その人は豊かに実を結ぶ」ことが出来ます。「私たちはキリストの外にいる限り、どんな良い実りももたらすことはない」(カルヴァン)でしょう(洗礼から成長へ!)。◆実りの豊かな教会のキーワードが3つあります。1.「望むものを何でも願」うこと(祈り)。父なる神は豊かな収穫で「栄光をお受けに」なります(一反で何俵と自慢する農夫!)。2.「愛にとどまって」いること。3.「喜びが満たされる」こと。主につながっている教会は成長します(これからの福山教会!)。◆教会は主イエスを中心にした集まりです。「ひとつのみかて(御糧)ともに受けて」(パンとぶどう酒!)、「君の来ますを切に祈」(讃191番)って待ちます。


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